5.3　溶媒としての水

我々が水を飲まなければならない最大の理由は、身体を形作っている化学物質の多くに対して水が優れた溶媒だからである。他の様々な物質に対しても、水は優れた溶媒になっている。 溶媒とは、他の物質を溶かすことができる媒質のことである。溶媒の中に溶ける物質を溶質と呼ぶ。得られる混合物、すなわち、組成が均一（uniform）かつ均質（homogeneous）な混合物は溶液である（注：シャーベットや牛乳は、均一であるが均質ではないから、溶液ではない）。水が溶媒になっている溶液を水溶液と呼ぶ。物質には水に溶けるものと溶けないものが存在するが、その違いが生じる理由についてはこの章の後半で説明する。さしあたって注目するのは、実に様々な物質が水に溶けること、そして、この事実が生体組織や環境に重要な影響を与えることである。水が溶媒として働く例を表5.1 にまとめておく。

表 5.1　溶媒としての水の重要性

身体の中の水

・血漿は、種々の生命維持物質が含まれている水溶液である。

・呼吸で吸い込まれた酸素は、肺でヘモグロビンと結合して血漿に溶ける。

・CO₂は血漿に溶けて肺に運ばれ、体外に排出される。

・血漿は、栄養分を身体のすべての細胞および組織まで運搬する。

・水は、老廃物を体外に捨てることによって、身体の内部で化学的バランスが維持されるのを助ける。

環境の中の水

・水は、毒物を生体組織の中に持ち込み内部を移動させ、外に運び出す。

・ある種の殺虫剤、鉛イオン、水銀イオンなど水溶性の毒物は環境の中に拡散する。

・水は、希釈を通して、そして運搬を通して、汚染物質の濃度を安全なレベルまで引き下げる。

・雨水は、酸性雨の原因物質も含めて、大気中にある物質を地上に移動させる。

水が溶媒として優秀すぎるために、"純粋な" 飲料水などというものはまずあり得ない。飲み水には、ほぼ間違いなく他の物質が混じっていることを保証してもいい。水を供給する事業者は、水道水に含まれているミネラル、すなわち溶質の溶存量に関する情報を提供している。 アメリ力中西部の家庭で使われている水道水を分析した結果が表5.2に示してある。

Table 5.2 水道水のミネラル組成（mg/L）

カルシウムイオン	66	炭酸水素イオン	42
マグネシウムイオン	24	硫酸イオン	48
シリカ	18	塩化物イオン	6
		硝酸イオン	1

市販されているボトル水についても、容器に貼ってあるラベルまたは販売元のウェブサイトから、同様の情報をおおむね入手することができる。例として、Evian水のラベルには表5.3の情報が記されている。

Table 5.3 Evian水のミネラル組成（mg/L）

カルシウムイオン	78	炭酸水素イオン	357
マグネシウムイオン	24	硫酸イオン	10
シリカ	14	塩化物イオン	4
		硝酸イオン	1

この章では、表 5.2、5.3に記されている溶質の大部分を扱う。各溶存イオンに与えられている数値は、水 1Lあたりに入っている物質の量（mg単位）である。このような表示があることから当然浮かぶ疑問は、これらのいくつかの物質について、その量に注意する必要があるのかないのか、ということである。たとえばカルシウムイオンは、強い骨を作るというはっきりした健康上の利点を持っている。カルシウム源としては牛乳および乳製品の方が優れていて、約250mLの牛乳に含まれているものと同量の力ルシウムを摂取するためには、 Evian水を4Lも飲まなければならない。一方硝酸イオンは濃度によっては健康に害があり、特に幼児は害を受けやすい。Evian水のラベルに記されている他の物質においては、健康に問題を生じる恐れはない。人によっては健康に問題があるナトリウム（ナトリウムイオン）の量については、ラベルの別の場所に 500mLボトルあたりで5mg以下と記されている。

読者は、コップ１杯の水を飲むことにリスク／利便問題が絡んでいるとは夢にも思わないだろうが、実は絡んでいるのである。我々は、しかるべき処理がなされて化学的な分析が行われている以上、飲み水には大きな利便がある一方でごく低いリスクしかないと思いがちである。幸い、ほとんど全ての場合はその通りである。しかし、個別の水道水に対する分析結果やボトル水のラベルから得られる情報がどんなに有用であっても、その情報が完全であることは絶対にない。すでに述べたように、個別の溶質について、ラベルに記されている濃度から生じる健康リスクについてはどこにも記されていない。記載以外の物質が水に含まれているか否かに関する情報も全く示されていない。例をあげると、ほとんどすべての水にはごく微量の鉛が含まれているが、通常はその量が極めて低いために健康問題を引き起こすことはない。水の浄化のために塩素処理が施されているなら、塩素化で生成したいくつかの副生成物が間違いなく微量に含まれている。実際には、飲料水は飲んでも安全であるとの思いこみから、我々はどのような微量成分が飲み水の中に含まれているかに思いをはせることをほとんどしない。気にかけない理由の一端は、国および地方の行政が公衆を守るために行っている水質の規制と基準の設定である。ボトル水の大部分も同様な規制を受けており、独自に規格を定めている生産者もかなりある。

飲料水の健康度またはリスク度を評価する際には、水の中にどのような物質が混ざっていてそれらがどの程度の毒性を持っているかを知るだけでは不十分で、各成分が特定量の水にどれだけの量で、含まれているかも知る必要がある。言い方を換えると、溶質の濃度の意味と、それを表す一般的な方法について理解する必要がある。次にその問題を考えることにしよう。

5.4　水溶液中の溶質濃度

濃度の概念は、空気の組成との関連で１章に導入した。２章と３章でも、成層圏における塩素化物類の濃度や対流圏における温室効果ガスの蓄積濃度を考えたときに、いくつかの濃度単位を使った。ここでは、水に溶けている物質の見地から濃度の概念を復習しよう。

空気の成分濃度を視覚的にわかりやすくするのはかなり難しいが、水溶液中の溶質の濃度はわかりやすく、イメージするのも簡単である。たとえば１カップの水に茶さじ１杯の調味料を溶かしたときは、１カップあたり１さじ（1 tsp/cup）という決められた濃度の溶液ができる。同じ濃度 1 tsp/cupの溶液は、２カップの水に茶さじ２杯の調味料でも、４カップの水に茶さじ４杯の調味料でも、あるいは1/2カップの水に茶さじ1/2杯の調味料でも同じことに注意しよう。中に入れる調味料の量を増やしたり減らしたりするときに、水の量もそれに比例して増減しているからである。これによって、濃度、すなわち、加えるものの量と水の量の比率は、いずれの場合も１カップあたり１さじ（1 tsp/cup）である。水溶液の中の溶質の濃度も同じ形式に従うが、通常は違う単位を使って表される。この濃度を表すために、我々は４種類の方法を使い分ける。%（100分率）、 ppm（100万分率）、 ppb（10億分率）、およびモル濃度である。初めの３種類の単位はこれまでの章ですでに使われているから、もうおなじみである。モル濃度は３章で導入したモルの概念を使用する。それぞれの単位は状況にあわせて使い分ける。

パーセント（％）：　最もなじみ深い濃度の表し方が、１章で定義したパーセント、100 分率だろう。たとえば、100gの溶液中に5gの塩化ナトリウムが含まれている溶液は、5%重水溶液である。消毒剤として薬箱に入っている過酸化水素水は、普通3%の過酸化水素であるが、その意味は溶液100gに3gの過酸化水素が（溶液200gには6gの過酸化水素が）入っていることである。

ppm とppb：　飲料水に溶けている物質の濃度は、1%（100分の1）よりはるかに少ないのが通例である。そのため、そのように低い濃度を表すときに適した表現が使われる。100万分率（ppm、parts per million）は、飲料水の中にある溶質の濃度を表すときに最も広く使われる単位である。カルシウムイオンの1ppm水溶液には、水100万g（1,000,000g、10⁶g）あたりに1gのカルシウムイオンが含まれている。これと同じ濃度は、2×10⁶gの水あたりに2gのカルシウムイオン、5×10⁶gの水あたりに5gのカルシウムイオン、5,000g（5×10³g）の水あたりに5mg（5×10^–3g = 0.005g）のカルシウムイオンでも同じである。ppmは極めて有用な濃度の単位だが、100万gの水を測るというのは極めて不便である。そこで、ppmを決める上でもっと容易でしかも等価な方法を考える。水100万gの代わりに1Lの水を使うのだ。リットル（L）とは、1,000gの水が4℃の温度のときに占める体積を1とする単位である。1Lの量の水を測るのは、10⁶gの水を測るよりはるかにやさしい。そうするとある物質の濃度が1ppmのときには、1Lの水あたりに1mgあることと等価なことが、次の計算から示される。

1ppm = （溶質 1g）／（水 1000000g） = （溶質 1mg）／（水 1000g） = （溶質 1mg）／（水 1L）

Evian水のボトルのラベルからわかるように、飲料水には天然に存在する様々な物質がppm領域の濃度で含まれている。有毒な汚染物質のいくつかもppmの濃度領域で入っているかもしれない。たとえば、農業地帯の井戸水の中にしばしば入っている硝酸イオンの許容上限は10ppm、フッ化物イオンの許容上限は4ppmである。

汚染物質の中には、ppmよりはるかに低い濃度でも問題を生じるものがある。そのような物質の濃度は、ppb （parts per billion、10億分率）で表される。水に含まれる水銀（Hg）が1 ppbであるというときには、水10億g（1×10⁹ g）につきHgが1g入っていることを意味する。測りやすい大きさでいえば、水1L（1×10³ g）につき水銀1マイクログラム（1×10^–6 g、1μgと略記される）ということである。たとえば、飲料水の中の水銀の許容限界は2ppbである。

2 ppb Hg = （2 g Hg）／（1×10⁹ g H₂O）= （2×10^–6 g Hg）／（1×10³ g H₂O） = （2μg）／（1L H₂O）

1ppmというのは極めて低い濃度である。この濃度に関する類例のいくつかが1.2節で示されたが、そこでも記されているように、約12日間のうちの1秒間が1ppmに当たる。同様な比較を1ppbについても行うと、33年間のうちの1秒間、地球の円周上にとった2cmの長さである。

モル濃度：　化学で重宝されるもうひとつの濃度単位は、化学者が愛用する物質量単位であるモルを基準にしたモル濃度である。モル濃度（M）は、溶液1Lに含まれる溶質のモル数として定義される。

モル濃度（M）= （溶質のモル数）／（溶液1L）

モル濃度の最大の利点は、溶質がどのような物質であっても同じl モル（1M)）溶液には全く同じ個数の化学種（分子または原子）が含まれることにある。溶質の質量は分子質量によって違っているが、化学種の個数はすべての1M溶液で等しい。水の化学分析法ではモル濃度がしばしば使われる。ここでは、もう少しモル濃度そのものに対するなじみを深めておこう。

例として、塩化ナトリウムを水に溶かした溶液を考えよう。NaClのモル質量は58.5gであるから、1 モルのNaClの重さは58.5gである。適当量の水に58.5gのNaClを溶かしてから水を追加して容積を正確に1Lにすれば、モル濃度1.00MのNaCl溶液が得られる（図5.6参照）。但し、1MのNaCl溶液を作る方法は他にも多数ある。たとえば、0.500モルのNaCl（29.2g）を使って0.5Lの水溶液を作ってもよい。このときには、図5.6 で使っている1Lの定容フラスコ（メスフラスコ）の代わりに500mLの定容フラスコを使わなければならない。

図5.6　 1.00M NaCl水溶液の作り方

ここまでで、飲み水とその中に混じっているかもしれない物質のいくつか、そして、それら物質の濃度の表し方に関しておよその見当がついた。そこで、水を分子レベルで詳しく調べる作業に進ことにする。目的は、優れた溶媒としての特性も含めて、水が持つユニークな性質を理解することである。

5.5　水分子の構造と物理的性質

この章では、この重大な疑問—水は何なのだ？—に答える努力をする。明らかなことは、水は我々の生命にとって必須であること、また、優れた溶媒であることだ。あまり明らかとは言えそうにないのは、水が多くの異常な性質を持っているからこそ、我々が水に依存することができる、という点である。確かに水の物理的性質はかなり異様であるが、そのことが我々に幸いしている。もし、水がもっとありふれた物質であったら、我々はかなり違った生き物になっていただろう。

液体の中で最もありふれている水は驚きに満ちている。ます注目すべきことに、室温（約25℃) と常圧では気体ではなく液体である。水のモル質量は18.0g/molだが、モル質量がこの程度の他の物質は、同じ条件下ではほとんど例外なく気体なのだ。ありふれた大気ガスを考えると、N₂、O₂、および、CO₂のモル質量はそれぞれ28、32、および44g/molである。いずれの分子もモル質量が水より大きいのに、これらは我々が呼吸するガスであり、飲むための液体ではないのだ。

水はまた、100℃という異常に高い沸点を持っている。この温度は、セルシウス温度目盛（摂氏温度）の基準点のひとつである。もうひとつの基準点は水の凝固点0℃である。大部分の液体は凝固するとき収縮するにも関わらず、水は、氷結するときに膨張するという、さらに奇妙な性質を持っている。これらを含めて、水が持つ異常な性質の数々は水の化学的な組成と分子構造に由来している。この節では、水が示す異常な挙動の原因を探ることにしよう。

水の化学的および、物理的性質を理解するためには、化学組成と分子構造に関する知識が必要である。化学組成を知らない人はまずいないだろう。水の化学式H₂Oは、おそらく世界で最もよく知られている化学情報である。２章で学んだように、水は共有結合できている化合物である。図5.7には、水分子の形を空間充塡型および、電荷密度模型を使って示してある。

図5.7　H₂O分子の様々な表し方

(a) ルイス構造式と（通常の）構造式

(b) 空間充填モデル

(c) 電荷密度モデル

酸素原子と水素原子に共有されて共有結合を作っている電子は、両側の原子によって等分に共有されているわけではない。実験で得られた証拠から、酸素原子が水素原子より強く共有電子対を引きつけているのである。専門用語を使うと、酸素は水素より高い電気陰性度を持つ、と言う。電気陰性度とは、原子が共有結合を作ったときに、共有下にある電子を原子が引き寄せようとする傾向の目安である。電気陰性度が大きいほど、その原子は結合電子を自分の方に引き寄せる。